《 椅子がこわい 》

“この記録は私の遺書になったかもしれない”

原因不明の腰痛に3年もの間悩まされ続けて来た著者は

その“記録”が出版物として形になった時、帯にそう記す。

著者は誰あろう、日本ミステリー界では知らぬ者はない、

夏樹静子その人である。

1938年東京生まれ。

'61年慶応義塾大学英文科卒。

'73年「蒸発」で第26回日本推理作家協会賞を受賞。

フランス語訳「第三の女」で'89年度フランス犯罪小説大賞を受賞する。

「喪失」「風の扉」「訃報は午後二時に届く」「ダイアモンドヘッドの虹」等、著書多数。

ぎっくり腰の経験こそないものの、それもどきは一度経験した事がある。

現在の住まいに引っ越して来て数日後、重い物を持ち上げた時

「あいたっ!」ってな感じだった。

その後、寒さと普段の運動不足が祟り、

長距離を合わない靴で歩いた事も重なって、

整骨院通いをするハメになった。

それ以来、腰痛に対する恐怖感を持ち続けている。

この本を読むと、私の経験などちっぽけなものだという事が

痛いほどわかる。

夏樹女史の腰痛はまず、

原因不明のところからしてミステリーじみている。

どんな検査をしても、

(例えば内蔵疾患などを疑って検査してみても)

何も出て来なかった。

彼女は元来の真面目な性格から、

腰痛には水泳が良い、と聞けばスイミングに通い、

マッサージもマメに受け、ありとあらゆる民間療法、

もちろん医学療法も試みるが、

全く回復しない病状に怖れを抱き、

「もう一生治らないのではないか?」と思い悩む。

なんとあの高塚光氏の手かざし療法(笑)---笑っちゃいけないか---まで受けてみる。

世間には腰痛で苦しむ人が多く、

その数だけ療法があると言えるほど、

様々な情報が彼女の元に入ってくる。

しかし、何をやっても状況は一向に好転しないし、

その兆しも見せないのだ。

痛みのピークの頃はほとんど寝たきりの状態であったらしい。

3年もの長期に渡る腰痛との戦いは、

作家である彼女の小説の読み方に変化をもたらす。


以前には力強く生きて行く主人公に

自分の感情を仮託するのが常だったが、

ふと気がつくと、

敗者、挫折者、病む人や死んでいく人に

心添わせているのだった。

(文芸春秋刊:本書・133ページ)


そして、あろう事か彼女は自殺まで考えるのだ。

知り合いの医者から「眠れない」と言っては入眠剤を手に入れ、

「400錠飲んだら確実に死ねる」とどこかで得た知識を実行しようと画策する。

死を覚悟した彼女が娘に向かって言うセリフ。


ママはね、廃人同然のような、ボロボロになった姿を

あなた方に記憶されるのはいやなの。

幸せに満ちて、生き生きと仕事していた頃のママを憶えていてほしい。

その姿があなた方の心に残っている間に

消えてしまったほうがいいような気がするの。

そして、あなた方の思い出の中で生き続けるのよ。

思い出の中の輝いたママでいたいの。

(同・136ページ)


「夏樹静子」は偉大な作家である。

今では殆ど翻訳ミステリーしか読まない私も、

一時期は彼女の作品の熱心な読者であった。

TVでも何度か拝見したが、「優しくて凛とした人」だとの印象が強い。

そんな人をここまで追いこんでしまう病の恐ろしさ。

その原因は一体何だったのか?

人間の不思議を痛感させられる、一種のミステリーだ。

これは正真正銘の実話である。

(08/01/00)


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