《 社会学に何ができるか 》

社会学になにができるか?

それは「あたりまえ」の世界から私たちを引き剥がし、

動き始める事を可能にする。

自我論・儀礼論・会話分析・ジェンダー論・権力論・歴史社会学・文化装置論・世界社会論という、

考える道具としての<社会学>が、

私たちの生きる世界のなにを問い、

なにを見えるようにするかを描く、

新しい<社会学>入門。〜八千代出版刊初版本・帯より〜

浅野 智彦・西阪 仰・加藤 秀一・市野川 容孝・葛山 泰央・山田 信行:共著

奥村隆:編 

「社会学」という言葉を初めて聞いたのはまだ十代の終わり頃、

職場にいた先輩が「関西大学・社会学部」の出身だと知った時。

そんな学問があるのかと驚いた。

一体何をお勉強するの?って感じでそのまま忘れてしまっていた。

それから時は(随分)流れ、家庭に入り、

社会との関わりがなくなったかにみえた私だったが

それまで考えもしなかった「矛盾」とか「巧妙な仕組み」に

その現場から離れる事で気付かされ、

逆に社会と向き合う時間が増えたように思う。

内にいては見えないものが外から見ることでその輪郭を際立たせる形になったのだ。

言葉では上手く説明できない心のモヤモヤをずっと抱いて十数年をやり過ごし、

気付いた時にはこの歳になっていた。

新聞の書評欄(ラン)で見つけたこの本に一縷の望みを託し、書店へ足を運んだ。

当然のように取り寄せになったが現物を手にした時、

その前に「主婦論争を読むT・U」を唸りながら読んでいた私は、

その装丁の簡易さ・書き出しのわかりやすい言葉の羅列等で与しやすしとみた。

それは大きな間違いだったと読み進むうちに気付く事になるのだ。

この本はこれから社会学を学ぼうとする学生に向けて書かれた書物であり、

普通の、何の学もない私が太刀打ちできる代物ではなかった。

社会学とは、それまで「あたりまえ」と思っていた事柄を違う角度から見直すとき、

「あたりまえ」の根拠が根拠として成立しない事を解き明かして行く学問であると思う。

社会の常識というものは、

所詮人間がその力のせめぎあいで成立させているものであり、

「そうなっている」から「そうなの」で、

「なぜ?」と疑問を持ってはいけないものなのだ。

その常識に疑問を投げかけてみようとこの本は言う。

私が真っ先に開いたページは「ジェンダー論になにができるか」である。

「ジェンダー」とは、社会的性別と訳されている。

これを読んでいくと今の<性>のあり方が社会的な構造の産物であり、

「それが自然だから」という根拠は薄っぺらなレトリックである事がわかるのだが、

それを論理立てて説明する力が私にはない。

自分の頭の悪さに辟易し、

その能力の無さにがっかりするのはこんな時である。

「権力論になにができるか」の章では安楽死問題から始まり、

その問題を扱ったかのようにみえてその実、

世論に安楽死の必要性を説く為のプロパガンダとして

ナチスが製作した映画「私は訴える」を挙げ、

この映画が「国家のイデオロギー装置」として機能したことを教えてくれる。

また、不治の患者が自ら命を絶つことを、

それが他者に何の不利益ももたらさないがゆえに、

その人の「権利」として認めなければならないとした場合、、

しかし、その裏側には、

不治の患者がさまざまなケアを必要としながら生き続ければ、

他人や社会に対して多大な不利益がもたらされるだろうという、

もう一つ別の判断が隠されている事に気付かせてくれる。

このように、物事の別の側面を浮き上がらせる事ができ得る社会学は、

私にとって一遍のミステリー小説を読むような興奮を与えてくれる。

「あたりまえ」の<根拠>を問いただし、突きつめていったとき、

大きな、一人では立ち向かえない壁、それを“謎”と認識した時から、

いや、<根拠>に疑いを持ち始めた時からすでに

個々の社会学は始まっているのだと思う。

私のこの本に対する理解度はここら辺り。稚拙極まりないとはこの事。

ちゃんとお勉強した方がいらっしゃるなら私に(抗議ではなく)講義、お願いします。

(04/09/00)


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